ぼくたち・わたしたちの東日本大震災
3/11 東日本大震災本震
3月11日(金)午後2時46分,低学年は下校が始まったところに,3年生以上は下校の準備をしていたところに宮城県沖を震源とする大地震が起きました。
子どもたちは教師の指示の下,すぐに机の下に潜りました。しかし,待っても待っても揺れは収まらず,とにかく長い時間を耐えました。机の上に置いてあるものは床に落とされ,教室の前後にある戸棚やロッカーからは荷物が音を立てて落ちてきました。揺れている間は,まっすぐ立っていることはできませんでした。
揺れが収まってから,一斉に避難を始めました。校舎は窓ガラス1枚割れず,子どもたちは全員が無事校庭に避難しました。
校庭に避難が完了すると,にわかに真っ黒な雲から雪が吹きつけ始めました。そして,避難者を困惑させるような,吹雪となりました。
まもなく,マグニチュード9.0という未曾有の大地震にもかかわらず,多くの保護者の方が学校に駆けつけてくれました。吹雪の中,校庭で引き渡しを時間を空けずにおこなうことができました。
引き渡しが一段落した後,体育館に移動しました。その頃には地域の工業団地の工場の方々も本校体育館に避難を始めていました。保護者の方の中にも,一度自宅に戻ったものの体育館に避難される方も多くおられました。
夜9時までには児童の引き渡しを終えました。こんな大きな震災でありながら子どもたちにだれ一人けがをする子がいなかったのが幸いでした。
本校体育館には,しらかし台地区の避難所として地区のみなさんや付近にいた方々が集まってきました。深夜には,トンネル内で非常停止した東北新幹線の乗客も避難してきました。
本校避難所には,地区の工業団地の工場から,たくさんのパンやおにぎり,飲み物の援助物資の提供がありました。また,JRからも非常用電力の提供を受けました。これらのこともあり,他の避難所より恵まれていました。しかし,避難者が多くなるにつれ水や食料は十分な量は確保できなくなってきました。
本校体育館の避難所は,3月15日(火)まで続きました。電気の供給が可能になると,避難所をあとにして自宅に戻る方が増えました。
電気と違って,水やガスの復旧にはかなりの時間がかかりました。ライフラインの復旧とともに,生活にも落ち着きを取り戻すことができるようになってきました。その頃になると,連日校舎内外を検査をする方々が訪れるようになりました。建築業者の方が調査をして,校舎,体育館,校庭は安全であると太鼓判をいただきました。但し,プールだけは復旧までかなりの時間がかかるようです。